「島大ミュージアム学」第2回の質問・回答
◆『出雲国風土記』に関する質問

(質問)『出雲国風土記』の内容について教えてほしい。

(回答)
 奈良時代、713年(和銅6)、元明天皇は諸国に風土記の編纂を命じました。
 『出雲国風土記』は、現存する風土記の中で、一番完本に近いものです。
 『出雲国風土記』は、天平5年(733年)2月30日に完成しました。編集責任者は、国造(くにのみやつこ)「兼意宇郡大領(おうぐんかみ)」出雲臣広嶋(いずもおみひろしま)、執筆者は、神宅臣金太理(みやけのおみかなたり)です。

 内容は、以下の構成になっています。
・国の総括的記述(地勢の大観、東西南北の路程、資料処理の方針、国名の由来、神社・郡・郷・里の統計など)
・各郡別の記述(各郡ごとに、郷・里の統計、郷・里名の改否、郡名の由来、郡家(役所)から各郷・里への距離、正倉の所在、寺院、神社、山・川・池・島、産物、郡家から郡境界までの距離、執筆者責任者)
・国の特別記述(主要道の順路と距離、国境、各駅間の距離、軍団、烽(とぶひ)、戌(まもり)など、交通・防衛関係の記述)


関連リンク >>出雲国風土記(島根県文化財課のページ)
関連リンク >>『いにしえの島根』第5巻(島根県教育委員会のページ)



(質問)国引き神話について、もう少し知りたかった。
(回答)
 国引き神話は、『出雲国風土記』の冒頭、意宇郡(おうぐん)の最初の部分に書かれています。『古事記』や『日本書紀』には記載されていない神話です。
 「八束水臣津野命八束水臣津野命(やつかみづおみづぬのみこと)」は、出雲の国は狭い若国(未完成の国)であるので、他の国の余った土地を引っ張ってきて広く継ぎ足そうとしました。佐比売山(三瓶山)と火神岳(大山)に綱をかけ、「国来国来(くにこ くにこ)」と国を引き、できた土地が現在の島根半島であるといいます。
 東端の「三穂(みほ)の埼」は北陸から、西端の「支豆支の御埼(きづきのみさき)」は朝鮮半島の新羅から、その間の「闇見(くらみ)の国」と「狭田(さだ)の国」はそれぞれ「北門(きたど)の良波(よなみ)国」、「北門の佐伎(さき)国」から引いてきたとされます。

 国を引いた綱はそれぞれ「薗の長浜(稲佐の浜)」と「弓ヶ浜半島」になりました。そして、国引きを終えた「八束水臣津野命」が叫び声とともに大地に杖を突き刺すと木が繁茂し「意宇の杜(おうのもり)」になったといいます。


<原文>
所レ以 号2「意宇」1 者、國引坐“八束水臣津野命”詔、
「八雲 立 出雲國 者、狭布之 推國 在哉。初國 小所作。故、將2作縫1。」詔而、
「栲衾 志羅紀乃三埼 矣、『國之餘 有耶』 見 者、國之餘 有。」詔而、
童女 胸鉏 所レ取 而、大魚之 支太 衝別而、波多須〃支 穂 振別而、三身之 綱 打挂而、
霜黒葛「閒〃耶〃」爾、河船之「毛〃曽〃呂〃」爾、「國〃来〃」引来、縫 國 者、
自2去豆乃1 折絶而、「八穂米 支豆支乃御埼」。
以レ此 而、堅立 加志 者、石見國 與 出雲國 之堺、有名「佐比賣山」是也。亦、接引綱者、「薗之長濱」是也。
亦、「北門 佐伎之國 矣、『國之餘 有耶』 見 者、國之餘 有。」詔而、
童女 胸鉏 所レ取 而、大魚之 支太 衝別而、波多須〃支 穂 振別而、三身之 綱 打挂而、
霜黒葛「閒〃耶〃」爾、河船之「毛〃曽〃呂〃」爾、「國〃来〃」引来、縫 國 者、
自2多久乃1 折絶而、「狭田之國」是也。
亦、「北門 良波乃國 矣、『國之餘 有耶』 見 者、國之餘 有。」詔而、
童女 胸鉏 所取而、大魚之 支太 衝別而、波多須〃支 穂 振別而、三身之 綱 打挂而、
霜黒葛「閒〃耶〃」爾、河船之「毛〃曽〃呂〃」爾、「國〃来〃」引持、引縫 國 者、
自2宇波縫1 折絶而、「闇見國」是也。
亦、「高志之 都都乃三埼 矣、『國之餘 有耶』 見 者、國之餘 有。」詔而、
童女 胸鉏 所取而、大魚之 支太衝 別而、波多須〃支 穂 振別而、三身之 綱 打挂而、
霜黒葛「閒〃耶〃」爾、河船之「毛〃曽〃呂〃」爾、「國〃来〃」引来、縫 國 者、
「三穂乃埼」。
接引 綱、「夜見嶋」。固 堅立 加志 者、有 伯耆國 「火神岳」是也。
「今者、國者 引訖。」詔而、意宇社爾、御杖衝立而、「意恵」登 詔。故、云2「意宇」1。


<読み下し文>
 意宇(おう)と号(なづ)くる所似(ゆゑ)は、国引き坐(ま)しし八束水臣津野命(やつかみづおみづぬのみこと)、詔りたまひしく、「八雲立つ出雲の国は、狭布(さぬの)の稚国(わかくに)なるかも。初国(はつくに)小く作らせり。故(かれ)、作り縫はな」と詔たまひて、「栲衾志羅紀(たくぶすましらき)の三埼(みさき)を、國の餘(あまり)ありやと見れば、國の餘あり」と詔りたまひて、童女(おとめ)の胸鋤(むねすき)取らして、大魚(おふお)の支太(きだ)衝(つ)き別けて、波多須々支(はたすすき)(幡薄)穂振り別けて、三身(みつより)の綱打ち挂(か)けて、霜黒葛(しもつづら)繰(く)るや繰るやに、河船(かはふね)の毛曾呂毛曾呂(もそろもそろ)に、「國來(くにこ)、國來」と引き來縫へる國は、去豆(こづ)の折絶(たえ)よりして、八穂米支豆支(やほしねきづき)(杵築)の御埼(みさき)なり。かくて堅め立てし加志(杭)は、石見国と出雲国との堺なる。名は、佐比賣(さひめ)山、是なり。
亦、持ち続ける綱は、薗の長濱、是なり。亦、「北門(きたど)の佐伎(さき)の國を、國の餘(あまり)ありやと見れば、國の餘あり」と詔りたまひて、童女(おとめ)の胸鋤(むねすき)取らして、大魚(おふお)の支太(きだ)衝(つ)き別けて、波多須々支(はたすすき)(幡薄)穂振り別けて、三身(みつより)の綱打ち挂(か)けて、霜黒葛(しもつづら)繰(く)るや繰るやに、河船(かはふね)の毛曾呂毛曾呂(もそろもそろ)に、「國來(くにこ)、國來」と引き來縫へる國は、去豆(こづ)の折絶(たえ)よりして、多久の折絶(たえ)よりして、闇見(くらみ)の國、是なり。
亦、「北門(きたど)の良波(よなみ)の國を、國の餘(あまり)ありやと見れば、國の餘あり」と詔りたまひて、童女(おとめ)の胸鋤(むねすき)取らして、大魚(おふお)の支太(きだ)衝(つ)き別けて、波多須々支(はたすすき)(幡薄)穂振り別けて、三身(みつより)の綱打ち挂(か)けて、霜黒葛(しもつづら)繰(く)るや繰るやに、河船(かはふね)の毛曾呂毛曾呂(もそろもそろ)に、「國來(くにこ)、國來」と引き來縫へる國は、宇波(うなみ)の折絶(たえ)よりして、闇見(くらみ)の國、是なり。
亦、「高志(こし)の都都(つつ)の三埼(みさき)を、國の餘(あまり)ありやと見れば、國の餘あり」と詔りたまひて、童女(おとめ)の胸鋤(むねすき)取らして、大魚(おふお)の支太(きだ)衝(つ)き別けて、波多須々支(はたすすき)(幡薄)穂振り別けて、三身(みつより)の綱打ち挂(か)けて、霜黒葛(しもつづら)繰(く)るや繰るやに、河船(かはふね)の毛曾呂毛曾呂(もそろもそろ)に、「國來(くにこ)、國來」と引き來縫へる國は、三穂の埼なり。持ち引ける綱は、夜見嶋(よみのしま)なり。固堅め立てし加志(かし)は、伯耆國なる火神岳(ひのかみのたけ)、是なり。今は國引き訖(を)へつ」と詔りたまひて、意宇杜(おうのもり)に御杖(みつゑ)衝き立てて「意恵(おゑ)」と詔たまひき。故、意宇(おう)と云ふ。

参考文献
加藤義成 1957『修訂・出雲国風土記参究』今井書店

関連リンク >>『いにしえの島根』第5巻(島根県教育委員会のページ)

(質問)『出雲国風土記』の国引き神話は作り話であるのに、実際の地形形成と似ているのは不思議だ。
(回答)
 縄文時代以降、沖積作用によって出雲平野が形成されていきましたが、風土記が叙述された奈良時代とは、かなりの時代差があります。縄文時代の地形変遷が神話に反映されたとは考えにくいと思います。
 ただ、三瓶山の頂上などから出雲平野や島根半島を見下ろすと、古代人が、こうした想像をしたことが理解できなくもないです。また、奈良時代でも、神戸川や斐伊川によって、神戸水海や宍道湖が埋積され、出雲平野が広がっていったと考えられるので、こうした現象が神話の発想に結びついたのかもしれません。

(質問)『出雲国風土記』で、大山が「火神岳(ひのかみのたけ)」と呼ばれた理由。
(回答)
はっきりとは分かりません。


(質問)『出雲国風土記』で、神西湖が「神門水海」と呼ばれた理由。
(回答)神西湖は、奈良時代には、「神門郡」と呼ばれる地域でした。そこにある湖だからでしょう。


(質問)『出雲国風土記』で、三瓶山が「佐比売山」と呼ばれた理由。
(回答)はっきりとは分かりません。


(質問)『出雲国風土記』で、斐伊川が「出雲大川」と呼ばれた理由。
(回答)
出雲郡を流れる大河だからと思われますが、はっきりとは分かりません。