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旧奥谷宿舎に暮らした先生方

 1.旧奥谷宿舎に暮らした先生方

 島根大学旧奥谷宿舎は、旧制松江高校の外国人教師用に建設されました。現存する1号官舎は、ドイツ語の先生が暮らし、戦後、島根大学に引き継がれてからは、アメリカ人の先生も暮らしておられました。

1号官舎居住者(現存)
氏名 赴任期間 宿舎居住期間 国籍 備考
ハインリッヒ・マックス・ウィルヘルム・プラーゲ T11.3〜T14.6 T14.3〜? ドイツ 独語教師 著作権の父。
ヘルマン・フリッツ・カルシュ T14.10〜S6.3.31
S6〜S14.3
T14.10.1〜S6.3.31
S6.11.28(27)〜S14.3.31
ドイツ 独語教師 哲学者。
ゲルハルト・ハーマッヘル S6.4〜S6.7 ベルギー 独語教師 母衣町教会の神父。ワシントン大学で神学・英語学を専攻。臨時講師
ハンス・シュワァルベ S14.11〜S20.8 S14.11.1〜S20.8.6 ドイツ 独語教師 退任後,1961(昭和36)年〜1975(昭和50)年、駐日ドイツ大使館報道官。オーアーゲー・ドイツ東洋文化研究協会(OAG)。1971年、勲三等旭日中綬章を受賞。
藤野義夫 T15.4.9〜S28.4.2 S20.9.13(9.6)〜S23.3.31 日本 独語教授 岡村と同居。ヘルマン・ヘッセと文通。
岡村 弘 S16.8〜S27.8.1 S20.9.13(9.6)〜? 日本 独語教授 藤野・原と同居。
原弘二郎 S5.4.1〜S28.7.3 S23.4.1〜? 日本 西洋近代史教授 岡村と同居。
バーソルド・アロンスタイン S26.5〜S31.2 S26.5〜S31.2 アメリカ 英語・政治史教師 島根県の英語教育の父。宿舎で英会話教室を開き、多くの人が受講。
アリスン S31〜S32 アメリカ 附属中学校 女性。

2号官舎居住者(1937(昭和12)年3月28日焼失)
氏名 赴任期間 宿舎居住期間 国籍 備考
カスバート・ボイド・バウマン T13.5〜T15.3 T14.3.18 イギリス 英語教師 23歳で赴任。
アーノード・ディクインシ・ミアーズ T15.4〜S4.3 T15.4.5〜S4.3.31 イギリス 英語教師 S41.2.16死去
エイチ・トゥルーメン・ギルソン S4.4〜S4.7 イギリス 英語教師 S4,カナダから来日
エス・ベッセル S4.9〜S5.1 イギリス 英語教師 満鉄を経て来日
エドワード・ウィティカー S5.1〜S7.3 S5.1.25(S4.12.19)〜? イギリス 英語教師 ケンブリッジ大学卒業後,来日。数学者。
ハロルド・ジョンソン・ウッドマン S7.4〜S17.3 S7.4.1〜S12.3.28 アメリカ 英語教師 日本生まれ。ボストン大学,ニューヨーク大学で学び東北学院や富山高校で教鞭とる。日本人と結婚。娘2人。

 2.著作権の父 ウィルヘルム・プラーゲ博士


 1922年〜1925年、旧制松江高校でドイツ語の教鞭をとりました。日本語が堪能、授業は厳格で生徒から恐れられていました。
 その後、東京で著作権使用料の取立業を始め、「プラーゲ旋風」という騒動を起こしました。彼の著作権団体には、山田耕筰も所属していました。現在、わが国における著作権概念普及のきっかけとなった人物として、改めて評価されています。
松江高校時代のプラーゲ先生(大正11年4月,大根島にて

 3.ラフカディオ・ハーンの愛した憧れの松江に… 哲学
者・フリッツ・カルシュ博士


 1925年9月末、フリッツ・カルシュ先生は、旧制松江高校ドイツ語講師として憧れの松江の地を踏み、この宿舎に暮らしました。松江を赴任地に選んだのは、ラフカディオ・ハーンの書の影響だったようです。後に、「松江で過ごした歳月と同僚の先生や生徒たちとのふれあいは、何にも替えがたい、素晴らしいものであった。」と語っておられます。すすんで地元の人たちとも交流し、ハーンと同様に自然や人情あふれる神々の里に魅せられていったのでした。

カルシュ先生(旧奥谷宿舎庭にて,昭和13年頃)

カルシュ先生ご一家(旧奥谷宿舎庭にて,昭和13年頃)

 4.永井隆とカルシュ先生

 “長崎の鐘”で知られる永井隆博士は、大正14(1925)年、旧制松江高校に入学し、カルシュ先生からドイツ語を教わっています。
 当時、カルシュ先生のドイツ語の授業は、前任のプラーゲ先生の厳格なやり方とは正反対で、大変温厚なものでした。このため医学部進学を目指す学生のなかには、これでドイツ語の力がつくのだろうか…という批判的な意見をもつ者もありました。
 しかし、永井隆は別な考えでこう言ったそうです。
 「なる程、プラーゲさんのやり方が続いていたら、我々の会話の力はもっとつくだろう。だがカルシュ先生に教わっていると、ドイツ語教育をとおして、もっと深いものが教えて貰えると思うので、僕はこのままの方がいいと思う。」
 この言葉に、クラスメートも納得し、カルシュ先生の授業を認めるようになったそうです。哲学者であるカルシュ先生の授業は、ただドイツ語を教えるだけではなく、それを通して国際的視野にたったモノの見方、考え方を学生たちに植え付けていったのでした。
 若き日の永井隆の人格形成にとって、カルシュ先生の及ぼした影響が非常に大きなものであったことが窺えます。


永井隆博士
(旧制松江高校入学時、大正14年)

旧制松江高校卒業集合写真
(昭和3年)
  6.日独文化交流の懸け橋 ハンス・シュワァルベ博士

 旧制松江高校退任後の1961(昭和36)年〜1975(昭和50)年、東京で駐日ドイツ大使館報道官を務められました。この間、東京のオーアーゲー・ドイツ東洋文化研究協会(OAG)会長も務められ1975年には、日本とドイツの文化交流に顕著な貢献をされたことが認められて、勲三等旭日中綬章を受賞されました。
 また、帰国後は、独日協会事務局長を務められました。

 

シュワァルベ先生
(松江にて) 
 

 5.島根県の英語教育の父 バーソルド・アロンスタイン博士


 新制島根大学に受け継がれた昭和26〜31年、バーソルド・アロンスタイン博士という米国から派遣された島根大学文理学部の先生が暮らしていました。
 アロンスタイン先生は、毎週水曜日、旧奥谷宿舎のダイニングルームで島根大学の教官・学生・市民などを招いて英会話教室を主宰され、その温厚な人柄から「アロンさん」という愛称で親しまれていました。

 アロン先生に英会話を習った学生たちは、その後、アメリカに留学したり、県内の英語教師になるなどして、ご活躍されました。

アロンスタイン先生
(昭和27〜28年頃、旧奥谷宿舎にて)

アロンスタイン先生ご一家
(昭和27年4月、旧奥谷宿舎前にて)

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